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昭和記念公園

土曜日会社の本部のリクリエーションの一環で昭和
記念公園に行ってみました。30年ぐらい前に行った
ことがあるきりです。

そもそも昭和記念公園とは、何でしょう?ウィキで
調べると、「昭和天皇御在位五十年記念事業の一環
として、現在及び将来を担う国民が自然的環境の中
で健全な心身を育み、英知を養う場とするために、
戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川市と昭島市
の両市にまたがる立川基地跡地のうち、180haを
記念公園として建設することが閣議決定され、
「緑の回復と人間性の向上」をテーマに1978年(昭和
53年)度より国土交通省の手で施設整備が進められ
てきた。1983年(昭和58年)10月26日、昭和天皇臨席
のもとに約70haで開園した後、レインボープールや
子供の森、日本庭園、砂川口、盆栽苑等次々と施設
が整備され、2005年(平成17年)11月にはみどりの
文化ゾーンが共用され、同時に昭和天皇記念館が
開館した。」時代的には、オリンピックから19年、
万博から13年経って、バブル時代へむけた日本の
国力が旺盛の頃ですね。万博公園にも似た趣が
あります。
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「本公園は立川基地跡に開設されており、レクリエー
ション施設としての面もあるが、大規模な震災や火災が
発生した場合は、避難場所としての機能を果たすよう
設計されており、立川市と昭島市の広域避難場所の
一つに指定されている。」
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去りゆく夏のひまわり園とお彼岸を前に彼岸花も
咲き始めています。季節感ですね。

バーベキュ大会が始まる前の大雨の散策では、静かな
秋の訪れを感じさせるものでした。

バーベキューは、私のキャリアーは筋金入りで、日本
バーベキュー協会のバーベキューインストラクター初級
の資格が光ります。お子様も含めて多くの人に美味しい
肉を焼きました。やはり、塩・胡椒特に塩がポイントです。
幸い岩塩を持ってきてくれた人がいて出色でした。テント
屋根の下で、大雨で足元は川状態のワイルドさは結構
好きです。

会社の家族を呼ぶイベントは職場紹介とともに大変
意味深いものがあると感じます。今の日本に必要かも
しれませんね・・・

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多摩川花火大会

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20日土曜日はゴルフも入れずで自宅からそれほど遠く
ない二子玉川の花火をテニスの仲間と観ることになり
ました。台風の影響で直前まで雨が降るコンディション
でしたが、19時からは何とか開催の運びとなりました。
あとで、蘊蓄を述べますが、楽しみ方は3通りあって、
世田谷の花火、川崎の花火、双方が高層マンション
に映るプロジェクションマッピング的なものです。

そもそも、どんな花火大会かはウィキから借用します。

「世田谷区たまがわ花火大会・川崎市制記念多摩川
花火大会は、国道246号二子橋および東急田園都市線
多摩川鉄橋付近を中心とした多摩川河川敷、世田谷区
玉川・鎌田および高津区諏訪地域で各々開催される。

両大会は別々の大会であるが、開催場所が隣接して
おり、また1994年以降は同日開催が行われている
(ただし2004年から2006年は世田谷区側のみ休止して
いた)。そのため周辺住民は「二子玉川の花火大会」と
して同一の大会とみなしている面もある。実際、交通
規制等で両大会が協力する点も多い。

開催日時は基本的に毎年8月第3土曜日の午後7時頃
から(ただし荒天時は翌日に順延)となっている。なお
2011年の大会では、世田谷区側大会が東日本大震災
の影響等を鑑みて開催を取り止め川崎側の単独開催
となり、開催日程も10月1日となった。

打上数は両大会それぞれ約6,000発、合計約12,000発。
観客数は両大会あわせて通年60-70万人程度、最高で
100万人を数えた年もあるが、川崎市側単独開催となった
2004年-2006年は30万人前後になっている。

これらの大会は自治体による出資のほか、地元の商店・
企業などからの寄付や地域住民の募金活動や警備の
応援、ボランティアによるごみの片付けや事後清掃活動
などによっても支えられており、世田谷区南部、川崎市
および多摩田園都市地域における夏の風物詩になって
いる。」

という訳で、なかなか見応えがありました。オリンピック、
各地のお祭りととともに、夏の盛りが過行く寂しさととも
に諸行無常感が何ともいい風情を醸し出しています。

さてさて、体調を整えながら、秋へ向かうことといたしや
しょう・・・・・

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夏休みあれこれ

猛暑日が続き外に出ることも危険覚悟といったところ
でしょうか。8月8日から一週間夏休みを取ることに
しました。

いつもは夫婦でどこかへ旅行なのですが、川崎の自宅
に戻ったこともあり、自宅にいて、家の中の片づけ、娘
と孫娘たちが3泊4日で在宅し、にぎやかで幸せな時間
を過ごすことができました。

日ごろ行けない銀行に行ったり、マイナンバーカードを
受け取りに行ったり(結構大変・・・何か月も前に予約で
暗証番号を入力させられたりで。毎日テーマをこなし
結構忙しい・・・

11日にはサクセスクラブのサマーイベントで鎌倉の
「ビストロ アンパサンド」へ集合し、「鎌倉の食材で
創るココット料理&オーガニックワインのお店を
宏子先生と由季子さんの紹介で楽しみました。
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間中航(わたる)夫妻が今年から経営を始めました。
20席くらいのこじんまりとしたよいお店です。
「おじさんのダッチオーブン料理」でご紹介した
ココット鍋とは鋳物のホーロー仕上げの鍋です。
ル・クルーゼとかストウブが有名です。

12日には、石黒修さんが80才を迎え、その卒寿
お祝いの会にお邪魔しました。俳優の次男の石黒賢
さんも来ておられました。石黒修さんといえば、
全日本単複3勝、国内初のプロテニスプレーヤー
そして1961年のデ杯対フィリピン戦で二勝二敗
で迎えた最終戦対デイロで逆転大勝利をおさめた
レジェンドです。(私がテニスを始めた1967年ころ
はこの話が有名でした)

13日には新国立美術館へ「オルセー美術館・オラン
ジェリー美術館所蔵「ルノワール」展」と日美展へ
わが不肖の入選作品「那智の滝壺」を観に行きました。
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(平日猛暑にも関わらず多くの人々)

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ルノアール展お目当ては「都会のダンス」「田舎のダンス」
の対の作品。田舎のダンスでは夫人になるアリーヌが
モデルになり、絵描きに幸せな視線を送っていて、都会の
ダンスでは女性が愁いを含んだ視線で奥を見つめている
対象がなかなかです。
http://morikoji.net/blog-entry-3.html
解説は森耕二先生にお任せしましょう。


その他には猫の額の庭の藤とのうぜんかずらが伸び放題
なので、思い切って剪定し棚を作りました。また母の家の
梅の枝を切り詰めたり、リサイクル品や不要ゴミをせっせ
と出したり、結構な労働でした。

リラックスできた一週間でした。


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東北のまつり

8月の初旬は東北各県でお祭りが盛り上がる時期です。
会社でも協賛している祭りのひとつに青森ねぶた祭り
と秋田の竿灯祭りへ行くチャンスがありました。
◇青森ねぶた祭り
以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大
将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八
年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき
寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを
由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの
最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」
が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更され
ている。後述)。しかし坂上田村麻呂が現在の青森県の
地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源と
されたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、
日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事
(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流で、現在の
形式のねぶた祭りの発祥は浅虫ねぶたとされている。
一方で、田村麻呂の側近である文室綿麻呂は史実の
上で青森県まで達した可能性が高く、また青森ねぶた
のみ、他の地域のねぶた・ねぷたと大きく異なる、日本
の伝統音楽には他に類を見ないほどの勇壮な囃子で
あることから、蝦夷征伐説の可能性もなお否定できない。
青森市内には妙見の大星神社(征伐軍の戦勝祈願)・
幸畑地区熊野神社(蝦夷の砦「甲田丸」跡)・沢山地区
の稲荷社(蝦夷トンケイ没所)等、蝦夷征伐を伝える
痕跡が残っている。(「ウィキより)

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跳人(はねと)といってツーステップで跳ね回る役が
山車の前で「ラッセラー」と声を張り上げながら盛り上げ
ます。19時から21時まで2時間ぶっ通しでの行進は
かなりきついものです。

◇秋田竿灯祭り
笹や合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に
練り歩き川へ流して真夏の邪気や睡魔を払う「眠り流し」
が原型とされている。眠り流し自体は江戸時代以前より
行なわれており、宝暦年間には現在の原型があったと
され、五穀豊穣や無病息災、技芸上達を願って、旧暦
7月7日にあわせて行われる七夕行事とともに、旧暦7月
15日のお盆を迎え入れるために一連の行事として現在
の形になったとも言われている。「眠り流し」という言葉
が訛り、秋田市では「ねぶり流し」と呼んでいる。

竿燈は、外町(町人町)に住む職人や商人によって始め
られ、お盆に門前に立てる高灯籠を持ち歩けるようにした
のが竿燈の始まりとされている。次第に灯篭も数十個と
下げるようになり、力を競うようになっていった。蝋燭や
提灯が町民にも普及したことや、力よりも技を競うよう
になったことで現在の形になったとされている。いつから
現在のような形態になったのかは定かではないが数々
の資料から背景を探ることができる。寛政元年に書かれ
た「雪の降る道」には、現在の竿燈に近い姿の絵が描か
れている。文化11年に書かれた「秋田風俗問状答」には
平手で竿燈を持ち上げている絵が描かれている。慶応3年
に書かれた「出羽の道わけ」には頭に乗せて演技する姿
が描かれている。

竿燈の語源は景徳傳燈録の百尺竿頭須進歩からヒント
を得て、大久保鐵作によって名付けられたとされている。
また、昔は作り灯篭、ネブリナガシ、七夕とも呼ばれていた。
(ウィキより)

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文句なしに美しいです。2日とも昼間は30度を超え、
猛暑日に近いのですが、夜はぐっと涼しくなり、この祭り
が終われば短い夏は過ぎ、秋風が吹くことを実感する
ものでした。民衆がこの祭りに集中して準備して燃え
尽きる気持ちが参加してわかる気がしました。
短い夏の夢といった風情です。

準備して段取りを仕切ってくれた人々に感謝です。

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